来迎寺は、鎌倉には数少ない時宗の寺院の一つ。小さいですが美しい本堂と、三浦義明主従の墓のある、興味深いお寺です。ぜひ一度お訪ねください。
なお、鎌倉には同じ時宗のお寺に、西御門の来迎寺があります。その他の時宗寺院については、タグ時宗でご覧下さい。 → 西御門の来迎寺
- 宗派 時宗 清浄光寺(遊行寺)末寺
- 山号 随我山
- 開山 音阿上人
- 本尊 阿弥陀三尊像(鎌倉市指定文化財)
- 鎌倉三十三観音第四番
- 鎌倉市材木座2-9-19
- 経路 鎌倉駅前バス乗り場
九品寺循環など 九品寺下車(鎌倉~歩いて20分ほど)
時宗の寺院
このお寺は、1180(治承4)年、源頼朝の挙兵に応じて平家方と戦い戦死した三浦大介義明の菩提を弔うために建立されたお寺です。はじめは真言宗で、能蔵寺と言いましたが、後に、音阿上人が入山して時宗に改宗しました。1872(明治5)年に本堂・庫裡などが焼失していますが、本尊阿弥陀三尊像は小ぶりながら黄金輝く仏様は昔を伝えています。

材木座の裏通りを行くと、
鎌倉十四番 子育観音 来迎寺
の石碑の脇に小さく
三浦大介義明公の墓とあります。
「大介」はだいすけではなく、大介です。三浦氏に代々与えられた官名で代々の三浦氏当主が「三浦大介」を名乗っています。
さて、三浦義明とはドンは人なのでしょうか。まずはご本堂を参拝しましょう。


時宗の信徒の皆さん
あるとき参拝したところ、たくさんの白い巡礼衣装の人たちが、集団でお詣りしていました。各地から集まった時宗の信徒の皆さんでした。ご本堂を参拝した後、信徒会館で一休みされるようです。
小さなお寺に不釣り合いなような立派な信徒会館があるのはこのためなのですね。


本尊阿弥陀三尊像
ご本堂正面の引き戸は、いつも10センチほど開いており、堂内のご本尊を拝観することができます。
昇殿して間近にご本尊を拝観する場合は、必ず事前に寺務所に申し出てご了解を取ると良いでしょう。

来迎寺の本尊阿弥陀三尊像は、阿弥陀様を中心に、左右に菩薩が並びます。
両脇の菩薩像は、腰をかがめており、極楽で我々をお迎えしている姿なのです。

三浦大介義明と家来の墓

本堂の右手に三浦大介義明と多々良三郎重春の墓と伝える二基の立派な五輪塔があります。多々良三郎重春は義明の孫の17歳、材木座の戦いで討ち死にしました。また本堂の裏手には、材木座の戦いで戦死した三浦一族に仕えた武士たちの墓と言われる石塔群が集められています。
「三浦大介百六つ」
三浦義明 89歳で戦死
三浦氏はもとは平家に属していましたが、源義家の「後三年の役」に従って奥州に転戦し、その功績で三浦の地を賜り、大きな勢力となりました。源頼朝が伊豆で挙兵したと知って、その当主三浦義明は義家以来の源氏の恩顧に報いようと加勢し、子息の義澄を頼朝のもとに遣わし自らは89歳の高齢だったので本拠の衣笠城に残りました。
三浦義澄は急ぎ西に向かいました、源頼朝の石橋山の戦いに間に合わず、頼朝が敗れたことを知ってやむなく三浦に戻ろうとしました。三浦義澄を追って平家方の畠山重忠一党が迫り、材木座一帯で三浦と畠山の合戦となりました。
三浦義澄は小坪坂を背に迎え撃ちましたが敗れ、衣笠城に退却しました。畠山重忠はそれを追撃し、衣笠城を囲むと、三浦義明は自分は老い先短い故、ここで討ち死する覚悟であると籠城し、その間に義澄を逃しました。
三浦義明はその言葉の通り、89歳の老体で戦い、壮絶な討ち死をしました。後に義澄は頼朝のもとにはせ参じ、将軍を支える有力な御家人となります。
源頼朝は、苦境にあったときの義明の加勢に対する恩義を忘れず、後に衣笠の満昌寺で義明17回忌を盛大に供養しました。「鶴は千年亀は万年三浦大介百六つ」という祝い歌が流布しましたが、106つとは89歳に17年を加えた数です。
三浦一族家来の墓
三浦義明の墓にある矢印に従って、本堂とお墓の間を通っていうくと、「三浦大介公家来の墓」の矢印のついた出口があります。
ここはしまっていたら取っ手を上げて出ても良いので、出た後は閉めておきましょう。


回りは綺麗に掃き清められていますが、何とも不気味な感じのする一角です。晴れた日は良いですが、曇りや雨の日に、一人で訪ねるのにはちょっと勇気がいりそうです。





片隅の花
気を取り直して、来迎寺に戻りましょう。いつも片隅に、心安まる花を見ることができます。
なお、材木座の来迎寺と言えば、大きなミモザの木が有名でした。しかし2010年12月3日の大風で枝が折れてしまい、花が咲かなくなってしまいました。そのため木は切り倒され、新しく植え替えられました。今はこの木が2月末から3月初めに咲くようになりました。



