妙長寺

2023/4/28

 材木座通りのなかほどにある日蓮宗のお寺です。日蓮が伊豆に流された「伊豆法難」とかかわりのあるお寺です。また明治期には泉鏡花が滞在、「星あかり」という作品を書いています。ときの船出の地に創建され、後に現在地に移ったそうで、その時日蓮を乗せた舟の模った石舟があります。

  • 創建 正安元年(1299年)
  • 宗旨 日蓮宗 もと大町妙本寺の末寺
  • 山号 海潮山
  • 開山 日実
  • 本尊 三宝祖師像
  • 住所 材木座2丁目7-41

 2025年4月25日、妙長寺をお訪ねしました。元八幡の脇道を材木座通り(小町大路の続き。三浦道ともいう)にでて南に向かうと、左手にポストと大きな日蓮像が見えてきます。ここが妙長寺で、入山には入山料100円を納めましょう。

2025-4-25

 ご本堂には三宝祖師(日蓮)の本尊と、釈迦如来像・大菩薩(上行じょうぎょう菩薩、無辺行むへんぎょう菩薩、浄行じょうぎょう菩薩、安立行あんりゅうぎょう菩薩などが並んでおられるそうですが、拝観はできません。

 本堂のお詣りをすませ、右手を見ると、立派な相輪塔と石碑が並んでいます。

2014/11/2

 左手がうろこ供養、真ん中に相輪塔。その前に伊豆法難の石舟。右手に日蓮宗の髭文字によるお題目の塔。かつては石舟はもっと右手に置かれていたが、現在は法輪等の前に置かれている。2025/4/25撮影。

 日蓮は鎌倉で法華宗の布教を始めましたが、幕府は危険人物と疑い、弘長元(1261)年に捕らえて、伊豆に流しました。これが「伊豆法難」といわれる出来事ですが、その時乗せられた舟の六分の一縮尺の石舟が置かれています。
 現在の材木座海岸の沼浦というところから舟を出し、幕府の役人は日蓮を乗せて伊東まで行きましたが、日蓮を岩場に残して帰ってしまいました。潮が満ちれば溺れ死ぬところでしたが、一身に南無妙法蓮華経の題目を唱えていると、一人の漁師が気づき、港まで連れて行ってくれたそうです。

 日蓮を助けた漁師、船守弥三郎というものが日蓮に帰依しました。寺伝では弥三郎の息子が僧侶となって日実と号し、正安元(1299)年に沼浦の地に一寺を立てたのが妙長寺のはじまりだそうです。日実は日蓮六老僧の一人日昭を助けて鎌倉で布教し、但馬阿闍梨あじゃりともいわれた十八中老僧の一人です。元の妙長寺は、今よりずっと海寄りの所にありましたが、江戸時代に津波で流され、この地に移りました。

 うろこ供養の塔は、明治11(1879)年、第36世日慈上人が、漁獲された魚介類を供養するためにたてたものです。材木座は昔から漁師のすむ聚落でしたから、この寺で鱗供養の仏事が行われていたのです。
 供養は漁師、鮮魚商など魚介を扱う業者が集まり、僧侶の読経の中、タイ、カレイ、スズキなどを放流する放生会が行われます。
 戦中・戦後は中断していましたが、1974年に復活し、以後10年ごとに行われているそうです。<『材木座郷土誌』p.112による>

材木座郷土誌
冬花社
材木座の歴史、自然、産業、社寺、生活・文化。社寺では光明寺なども詳しい。

 本堂の右手、墓地の入り口にある小さなお堂に安置されているのは浄行菩薩さまです。『お地蔵さん』ではありません。浄行さまです。
 法華経のお経の中に説かれる四大しだい菩薩(佛に代わって末法濁悪の世にあらわれ、法華経を広めて悩み苦しむ人々を救う菩薩。上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、安立行菩薩)のお一人です。
 古来より参拝者は「浄行さま」の体と手でなでたり、または、浄行さまに水をかけたり、たわしのようなもので磨いたりきれいにしながら、自らの身体の良くないところごが少しでも治りように、お祈りしています。
 浄行菩薩像はいつ頃の造立か分かりませんが、浄行堂は篤信のお檀家の寄付によって建立されたそうです。<浄行菩薩堂内の説明書きによる>

泉鏡花「星あかり」

 妙長寺には、明治24年の7月・8月に、作家として活躍する前の若き泉鏡花が滞在していました。泉鏡花は明治6(1873)年、石川県金沢市に生まれ、北陸英和学校を中退、作家を志し、明治23年11月、尾崎紅葉の門に入ろうとして上京しました。しかし紅葉を訪問する勇気がなく、方々を彷徨するうち、翌24年に鎌倉に来て、この妙長寺に7・8月の二ヶ月間滞在しました。その後、10月になって思い切って紅葉を訪ね、入門を許されました。以後創作に励み、小説家として認められ、数々の名作を残しました。代表作は『高野ひじり』1900年、『おんな系図』1907でしょうか。お隣の逗子にも関係が深く、岩殿寺がんでんじを舞台とした『春昼しゅんちゅう』1906も書いています。
泉鏡花「星あかり」 この妙長寺滞在の経験をもとにして、明治三十一(1898)年に発表したのが小説「みだれ橋」で、後に「星あかり」と改題しました。泉鏡花の独特な、幻想的な小品で、妙長寺に寄宿した夏の一夜の体験をもとにしています。その中で、妙長寺は次のように描かれています。

 まで大きくもない寺で、和尚と婆さんと二人で住む。門まで僅か三四間、左手ゆんでは祠の前を一坪ばかり花壇にして、松葉牡丹、鬼百合、夏菊など雑植まぜうえの繁った中に、向日葵の花は高く蓮の葉の如く押被おっかぶさって、何時の間にか星は隠れた。鼠色の空はどんよりとして、流るる雲も何もない。なかなか気が晴々しないから、一層いっそ海端へ行って見ようと思って、さて、ぶらぶら。

 お寺の周辺は次のように描いています。

 門を出ると、右左、二畝ばかり慰みに植えた青田があって、向う正面の畦中に、琴弾ことひき松というのがある。一昨日の晩よいの口に、その松のうらおもてに、ちらちら灯が見えたのを、海浜の別荘で花火を焚くのだといい、否、狐火だともいった。…………
 浜の方へ五六間進むと、土橋が一架ひとつ、並の小さなのだけれども、滑川に架かったのだの、長谷の行合ゆきあい橋だのと、おなじ名に聞こえた乱橋みだればしというのである。

 若き日の泉鏡花が夜中にさまよったのが、妙長寺から材木座の海岸(文中にある由比ヶ浜)までの材木座通りでした。回りは今とはまったく異なり、田んぼが広がり、ところどころに別荘が建っている、という風景でした。乱橋は小さな橋ですが、鎌倉十橋に加えられています。

 さて「星あかり」の全文は、最近、藤谷治さんの『文学傑作選 鎌倉遊覧』2024 ちくま文庫 に集録されているので、手軽に読むことができます。他にも鎌倉を扱った文学作品が集録されているので、ぜひご覧下さい。

文学傑作選 鎌倉遊覧 (ちくま文庫ふ-60-1)
筑摩書房
他の収録作品 金槐和歌集(源実朝)、鎌倉一見の記(正岡子規)、道(高浜虚子)、この夏(宮本百合子)、滑川畔にて(嘉村磯多)、晩春(脚本小津安二郎・野田高梧)、無言(川端康成)、薪能(立原正秋)、日常片々(永井龍男)、『ボクの鎌倉散歩』より(田村隆一)、橋(黒川創)、『ツバキ文具店』より「夏」(小川糸)、現代語訳太平記巻十

墓地にて

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