鎌倉幕府滅亡のときに亡くなった戦死者を霊を慰めるために建てられたと思われる宝篋印塔。鎌倉西部の深沢の地に、不思議な伝説とともにあった泣塔が、2026年2月、大きな試練に立たされた。
中世の貴重な文化財であり、歴史的な景観であった陣出の泣塔とその周辺のかつての姿と、変わり果てた現在の姿を見てください。
陣出の泣塔とは
鎌倉の西部、深沢地区は、再開発が進んでおり、大きく様変わりしています。
その片隅の小さな丘に、ひっそりと南北朝時代の石塔・宝篋印塔が建っています。
地元では古くから「泣塔」と言っています。それには鎌倉幕府滅亡のときの戦いにつながる、古くからの言い伝えがあります。それだけでなく、南北朝期の年号が刻まれた大型の宝篋印塔として鎌倉市指定文化財としての価値の高い遺跡です。
この石塔はいままで何度も受難を経てきており、それが泣塔といわれるゆえんなのですが、今年2026年、深沢再開発の整備事業のために、新たな受難に晒されています。
鎌倉市はこの遺跡を観光スポットとして利用しようとせず、市民にも公開していなかったので、鎌倉市民も知らないまま、その歴史的景観が大きく変えられようとしているのです。
- 所在地 鎌倉市寺分11
- 行き方
大船から湘南モノレールで深沢へ。
深沢駅下車、北へ徒歩約5分 - 現在は、深沢再開発地域に含まれて整備事業が進められているため、立ち入ることが出来ません。
かつての泣塔の姿
かつてモノレール深沢駅の北には多目的スポーツ広場があり、北の外れにこんもりとした森がありました。この左手の中腹、樹木の影にみえたのが「泣塔」と言われる宝篋印塔でした。


しかし、当時も金網で囲まれており、中には入れませんでした。入るには鎌倉市教育委員会文化財課に申し込み、鍵を預かってこなければなりませんでした。それでも金網越しに石塔を見ることはできました。

南北朝期の宝篋印塔
この石塔は宝篋印塔という形式で、五輪塔などと並んで、平安末期から江戸時代まで、お墓、または供養のために建てられたものです。宝篋印塔は鎌倉のあちこちで見ることが出来ますが、これは高さ2.2mの大型で、典型的な宝篋印塔です。 → タグ 宝篋印塔
鎌倉幕府滅亡後、23回忌に建てられた供養塔
この石塔が重要なのは、大型で端正なその姿と共に、「文和5年」という年代が刻まれていることです。それは鎌倉幕府が滅亡してから23年目の西暦1356年、南北朝時代にあたります。文和は北朝で使われた年号であることも興味深いのですが、年号が判明しているケースは少ないので、この石塔は鎌倉市指定文化財建造物33のうちの1つに加えられています。宝篋印塔の側には「やぐら」があり五輪塔が数基が置かれていて、中世の文化の貴重な遺跡であることは間違いありません。
この石塔のもう一つの貴重なところは、「願主行浄」という造立者の名前が判明していることです。この人物については詳しいことは判っていませんが、造立者の名前がわかるのはめずらしいことです。

洲崎の合戦
このあたりは「陣出」という地名からも判るように、鎌倉幕府を倒そうと押し寄せた新田義貞などの軍勢に対し、北条一族の赤橋守時が鎌倉を守るべく陣を敷いたところ、と伝えられており、このときの「洲崎合戦」で敗れた守時ら北条方の死者を弔うために建てられたのがこの石塔ではないか、と考えられます。近くの等覚寺にもこの時の供養塔と思われる多数の五輪塔が残されています。
「泣塔」の伝説
「泣塔」の伝説は生きている。
ところでなぜ「泣塔」といわれるのでしょうか。それには不思議な話があります。
昔、この地にあったこの石塔を、手広の青蓮寺(鎖大師)に移したことがあったそうです。ところが夜な夜な泣き声が聞こえるので、和尚がよく聴いてみると、元のところに戻してほしいと訴えているのでした。そこで青蓮寺の和尚がこの地に戻したら泣き止んだので、そのときから「泣塔」といわれるようになったそうです。
さらに不思議なのは、この石塔には現代でも次のような話があります。この地は昭和18年に海軍工廠の魚雷製造工場となり、この塔も撤去しようとしましたが、村人のうわさにある塔のたたりを恐れて、そのままにしました。戦後には国鉄の車両工場となり、拡張工事のためこの塔を動かしたところ、その工事にあたった人たちに、次々と不孝な事故が起こったそうです。
ここでこの石塔は動かしてはならない、という伝説が再生されました。この話は鎌倉ではよく知られた話なので、鎌倉市役所の皆さんが知らないはずはありません。さて、今度の工事に携わった人たちに不幸な事故が起こらなければ良いのですが・・・・。それでなくとも深沢再開発を前に、泣塔はどうなってしまうのでしょう。泣いているのは泣塔自身かもしれません。

正月のスポーツ広場。少年ラクビーの大会か。たくさんの父母が応援に詰めかけています。臨時駐車場の向こうに見えるのが泣塔のある丘です。

2026年2月3日現在の姿
進む深沢再開発
2026年2月3日、モノレール深沢駅からほどちかい、「陣出の泣塔」を訪ねました。まず、ホームから北方を遠望すると、かつてスポーツ広場だった空き地の北に何やら岩の固まりが見えます。すでに樹木が伐採されて丸裸になった、泣塔のある丘でした。駅から降り、深沢再開発事業の整備のため立ち入り禁止の金網に添って、中には入れそうな所を探しましたが、入れませんでした。
あまりの変わりように愕然としました。中に入れないのでやむなく、金網越しや背伸びして上からスマホで撮影しながら進むと、工事車両の出入り口近くで、後ろ側からは近くから見ることができました。
4日にもうカメラ片手にもう一度訪ね、今度は望遠レンズでできるだけアップにして撮影。近くの市営住宅のある丘に登って、撮影しました。まずはごらんください。








囚われの泣塔



向かい側の市営住宅の一段と高いところから、望遠レンズを向けた。工事による破損から免れるためであろうが、泣塔はすっぽりと檻に入れられていた。2026年2月4日



鎌倉市文化財課への質問
2月4日(水)、上のような現状を確認してから、鎌倉市文化部文化財課に、このようなことになった経緯と今後について、問合せの電話を入れました。課長および担当者は不在でしたが、電話に出た職員は丁寧に答えていただきました。なぜこのような樹木の伐採を行ったか、については、次のような回答でした。
- 泣塔のある岩山に樹木・竹が生い茂り、根が食い込んだため、岩盤が崩壊するおそれがあったので、「防災」の観点から樹木・竹林を伐採した。
- これは、深沢地区再開発事業にかかわる「整備」の一環である。ただし「泣塔」の整備に関しては文化部文化財課が担当した。
- 今後については、泣塔を移動させることは無く、安全性を最優先して周辺を整備する予定である。
以上の回答に対し、補足で質問し、次のような答えがありました。
- 質問 岩山が崩壊するという根拠は科学的に証明されているのか。また、仮に崩壊のおそれがあるとしても、樹木・環境を生かして、現在の技術で岩盤を強化するなどの方法は採れなかったのか。→ 回答 判らない。
- 質問 鎌倉市の市民憲章には「鎌倉の史的遺産を破壊から守り後世に伝える」とある。また「鎌倉緑の緑の計画」には緑の資産を生かす必要があるとして、市民にもむやみな伐採を禁止している。今回の処置は、これらの基本理念に反する行為では無いのか。 → 回答 考えていないのでは亡いか。上司に伝える。
- 質問 今回の歴史的な景観の変更に関して、鎌倉市民・深沢地域住民に充分な事前説明をしたのか。 → 回答 していない。
景観を含めた文化財の保全を!
鎌倉市の考えは指定文化財である「泣塔」そのものは保全するとして、岩山は危険なので「防災上の観点」から整備した、という事のようです。しかし、文化財はその立地する周辺環境を含めて保全を図るのが当然であり、今回のような樹木の全面伐採は歴史的に価値のある景観を著しく破壊する行為として許されないことではないでしょうか。
また、この地は現在の当局が進めようとしている深沢再開発事業の中心的な部分である市役所の移転先とされていることが、開発優先で文化財保護が軽視されている背景なのではないか、と感じられます。
写真に見るように、泣塔は檻に入れられて保護されながら、それが立つ岩山はすっかり丸裸にされ、おそらく残った岩も危険だからということで撤去され、将来は人工的な石垣や階段が整備されることになるのでしょう。はたしてこのような「整備」が鎌倉市民にとって必要で、良いことなのでしょうか。洲崎古戦場を含む歴史的な景観を、もっと大切にする必要があると思います。
最後の一枚は、2月2日夕方、最後に残された樹木を寺分にお住まいのFさんが撮影したものを、拝借しました。貴重な写真をありがとうございました。

