かつて光明寺の一角であったところに、江戸時代の大名、内藤家の墓地が残されています。海に近い鎌倉の片隅に、突然現れる、巨大な墓石群。江戸時代の大名の力を示す壮観と言えるでしょう。実はここには映画“超高速!参勤交代”で知られるようになった殿様が葬られており、映画を見た人は一層の興味がわくのではないでしょうか。
- 行き方
- 鎌倉駅前 京急バス 鎌40/41 逗子行き 光明寺下車
- 光明寺境内の本堂の右手に入り、広場(幼稚園跡地)を横切って進むと、右手に墓所が見えてきます。
- 道路からでも全体を眺めることはできますが、墓所内を見学したい場合は、事前に光明寺寺務所に申し出て、墓所の鍵を開けてもらう必要があります。
大名内藤家の墓所

江戸時代の譜代大名磐城・平藩主内藤家(後に転じて日向延岡の藩主)の墓所で、鎌倉市の指定史跡。内藤家が光明寺の檀家となったため、江戸の霊巌寺から位牌堂とともに移されたもので、1634(寛永11)年から1863(文久3)年(刻銘は1888=明治21年)の間の藩主とその夫人(室)などの墓塔が、宝篋印塔や笠塔婆、五輪塔、石仏などの形で58基も並んでおり壮観です。特に宝篋印塔は40基をかぞえ、中世の形式と比較して大型化し、高さ4mを越える巨大なしかも江戸時代から幕末までの変化を観察できる貴重な遺跡です。





磐城・平藩主内藤家とは
内藤家は、もとは藤原氏で、藤原秀郷の5世の孫頼俊が内舎人に任じられたので内藤と称するようになった。戦国時代に三河の松平氏に従っていましたが、家長の時、徳川家康の家臣に転じ、弓の名手として数々の軍功を建てました。
内藤家長は天正18(1590)年、家康より上総佐貫に2万石の領地を与えられましたが、慶長5年、伏見で陣没しました。そ子の政長が元和8(1622)年、磐城平7万石に転じました。
次の内藤忠興は大坂の陣で戦功を立て、徳川幕府の2代の将軍、秀忠・家光に仕えました。領内の新田開発に努めて石高を2万石ほど増やし、干ばつに苦しむ農民を救うため夏井川に堰を作り、30kmに及ぶ潅漑用水を開くなど善政を行ったことで知られています。今も福島県いわき市では郷土の名君として慕われているそうです。

左手が磐城・平藩歴代藩主の墓 正面が忠興夫人の墓。以下、説明の数字は参考・配置図(最後)の番号です。位置を確認できます。


墓地の奥まったところに、内藤忠興とその室(夫人)の墓が並んでいます。内藤忠興墓は高さ4.5メートルで、その夫人の墓と共に、墓地の中でも古い宝篋印塔の形式をもっています。
延岡への転封
内藤本家、平の九代当主内藤政樹の元文3(1738)年、藩を揺るがす大一揆が起こりました。領内の農民が年貢減免、歩役金御免などを要求して城下に強訴し、藩兵と衝突したのです(磐城平元文一揆)。正樹は首謀者を捕らえ処刑しましたが騒動は長引き、幕府は延享4(1747)年、内藤正樹を日向延岡7万石へ転封としました(江戸時代を通じ、最も長距離の転封でした)。政樹はそこでも百姓一揆に悩まされましたが、次の政陽は学問所・武芸所を建てるなど藩政を立て直し、幕末の廃藩まで続きました。

墓域の左手(山側)に巨大な宝篋印塔が7基並んでいます。これらが日向延岡藩の内藤家歴代藩主・夫人の墓です。
湯長谷藩 内藤家
内藤家は磐城平の宗家から、いくつかの分家がありました。その中で、忠興の次男政亮が平の隣の湯長谷で独立したのが湯長谷藩です。その他、内藤の分家としては、信濃の高遠、三河の挙母、信濃の岩村田、越後の村上がそれぞれ大名になっています。
そのうちの信濃高遠藩内藤家の屋敷があった辺りが甲州街道の宿場となった内藤新宿で、現在は日本一の繁華街になっています。
さて湯長谷藩内藤家は最近、あることで注目されています。

2014年に発表され、ヒットした映画『超高速!参勤交代』が、この湯長谷藩がモデルでした。
佐々木蔵之介が演じた殿様は、実在の第4代藩主内藤政諄とされています。もちろんお話はフィクションですが、小藩のおかれた状況はあのとおりだったでしょう。
その内藤政醇の墓は、湯長谷藩の片隅にあります。日向延岡藩の巨大な墓石に比べるとあまりに小さく、細く、小藩の藩主の悲哀が感じられます。
それでも、映画公開後はここをお詣りする人もいるとかいないとか。

内藤家の系図
磐城平藩 日向延岡藩
政長―忠興―義概―義孝―義稠―政樹―政陽―政脩―政韶―政和―政順―政義―政擧
磐城湯長谷
政亮―政徳―政貞―政醇―政業―貞幹―政広―政徧―政璟-政民-政恒-政敏
宝篋印塔の変化
内藤家の墓所には、数え切れないほどの宝篋印塔があります。宝篋印塔は鎌倉時代に始まった、五輪塔や宝塔とならぶ石塔の形式の一つです。鎌倉でも中世の宝篋印塔が残っています。
内藤家墓所の宝篋印塔は、江戸時代の初期から幕末に賭けて造られたもので、いずれも巨大なもので大名墓地の石塔群の典型とされています。これだけ多くの宝篋印塔が並んでいる墓所が、ほぼ原型のまま残されているのは珍しいのではないでしょうか。
たくさんあってどれも同じに見えますが、よく観察すると、違いがあるのがわかります。



内藤忠興は内藤家第2代、義泰(義概とも)は第3代でいずれも江戸初期。内藤政詔は日向延岡藩第4代で江戸中期。宝篋印塔の屋根の「隅飾」といわれる部分が、徐々に外にそっている様子が分かります。これが江戸後期の変化で最も目につくところで、装飾性が強くなっていることが分かります。

墓石の写真だけでは大きさを感じられないので、年金者組合鎌倉支部健康ウォークで訪問したときのものを載せておきます。大きさを実感してください。

様々な石造物










墓所は、夏草におおわれていますが、時期になると、旧平藩・湯長谷藩の福島県いわき市の皆さんがバスを仕立てて墓参と草刈りに来るそうです。
また近くの鎌倉第一中学校の生徒たちがボランティアで清掃をしています。
つまり、内藤家はこの墓地を手放しており、鎌倉市が所有し、光明寺が管理してるようです。

参考
内藤家墓所の配置図(三浦勝男『鎌倉の史跡』を参考に作成)
