和賀江島

 材木座海岸に、干潮時に姿をあらわす港跡があります。鎌倉幕府執権北条泰時が築いた和賀江島わがえじまです。日本最古の築港跡とされる重要な遺跡です。

2017/4/28

 和賀江島は、1232(貞永元)年7月、勧進聖人往阿弥陀仏おうあみだぶつの申請により、執権北条泰時が着工した、石積で防波堤を築いた現存する日本最古の築港遺跡です。鎌倉の海岸(古くはすべて由比ヶ浜といいました)は砂浜なので大型の船は着岸できず、鎌倉時代までは江戸湾に面した六浦港が鎌倉の外港の役割を果たしていました。
 そこで幕府は、和賀江島の構築によって、外国船も直接入港できるようしようとしたのです。短期間のうちに完成させ、宋から多くの文物が直接鎌倉にもたらされるようになりました。いまでも材木座の海岸では、青磁や白磁の陶片がみつかることがあります。鶴岡八幡宮の修築の際に用いられる材木もここから陸揚げされ、材木座に集積されていました。江戸時代には材木座村と小坪村の漁民がともに利用していましたが、その使用権を巡っては時に紛争が起こったといいます。

海岸道路から入った所にある和賀江島の碑

 満潮時には築港遺跡はほぼ水没、沖合にわずかに頭をだすだけです。小さな石碑が見えます。内側は今も船だまりになっています。右手が材木座海岸、向こう側に稲村ヶ崎と江ノ島が望めます。

2014/4/12
満潮時の和賀江島
2014/4/12 材木座海岸 築港遺跡は姿が見えません

 和賀江島の碑

「和賀とは今の材木座の古名にして、この地往昔筏木運漕の港たりしよりやがて今の地名を負うに至れるなり。和賀江島は其の和賀の港口を扼する築堤を言ひ、今を距る六百九十余年の昔貞永元年勧進聖人往阿弥陀仏か申請に任せ平盛綱之を督して七月十五日起工八月九日竣工せるものなり」
大正十三年三月建  鎌倉町青年団

 これによれば1232年、7月15日から8月9日までの1ヶ月にも足らない期間で完成したことになります。時の執権が北条泰時でした。

 和賀江築港のための石材は相模川、伊豆近辺から運ばれたと思われます。 

 和賀江に築かれた港の堤防は、江戸後期には満潮時には海面下に没するようになり、港としては機能しなくなったようです。
 さらに関東大震災で相模湾・三浦半島の海岸一帯が隆起したため、和賀江の港には大きな船は入れなくなりました。
 そして太平洋戦争の末期に、連合軍の上陸に備えて背後の山上に砲台が築かれたときに和賀江の堤防の石が運び去られてしまいました。
 現在は大潮の干潮時の時、長さ200mに及ぶ陸地とつながる姿があらわれるだけとなってしまいました。

2015/3/15
2015/4/8 大潮の干潮で和賀江島も広くなり、地続きになろうとしています
2015/4/8

 4月8日は大潮でした。あいにくの雨でしたが、見に行ったところ、見事に築堤の石が姿をあらわしていました。

2017/4/28 12:57
今も船だまりとして使われている
干潮になると海におりる人もいる

 2017年4月28日は快晴、潮も引き、和賀江島がきれいに姿をあらわしました。
 このときばかりは材木座海岸から石を伝って左手の小坪につながる道まで渡ることができます。

小坪に向かう海岸沿いの道から和賀江をのぞむ
  • 潮位表を調べる
    和賀江島の築堤跡が海面から姿をあらわすのは、大潮の干潮の時です。いつ大潮になるのかは、サーファー用の潮位表を見ると便利です。
    次のホームページから地域を神奈川県、湘南・鎌倉・江ノ島に絞っていけば、潮位表がわかりやすいグラフになって出てきますので、見に行きやすい日時を選ぶと良いでしょう。
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和賀江島の歴史

『新編鎌倉志』

和賀江島と極楽寺
 和賀江島に入港する船舶は津料という税を支払わなければなりませんでした。その管理を任されていたのが、鎌倉の西のはずれで和賀江島の対岸に位置する極楽寺です。極楽寺を創建した忍性にんしょうとその教団は、各地で架橋や道路普請にあたっており、和賀江島の修築にも早くからかかわっていたものと思われます。現在の光明寺のところに極楽寺の末寺として万福寺という寺が置かれ、津料の徴収などの事務にあたっていました。
『新編鎌倉志』
 江戸時代の水戸徳川家の光圀(黄門様としてあまりにも有名です)は、『新編鎌倉志』という、いわば鎌倉案内ガイドブックを編纂しており、その中に和賀江島が描かれています。
 飯島とは今の光明寺前の海岸一帯をいい、岬の先端に和賀江島があります。また飯島から小坪に道が通っていますが、これが古東海道の一部だと考えられます。

 和賀江島を見ながら、高い崖の下を海岸線をたどっていくと小坪の漁港に出ます。小坪は現在は逗子市に属していますが、もとは鎌倉郡に属しており、その南端に当たっていました。
 この海沿いの道は古東海道と考えられます。鎌倉幕府は「四角四境祭」を行い、鎌倉の安全を祈念していましたが、南境が小坪でした。

 この絵はがきは、約100年以上前、大正ごろの材木座から小坪の漁村に向かう道を撮した珍しいもので、村人が歩いている様子がみられます。
 この道は、逗子マリーナの出現によって通れなくなってしまいました。

2014/4/12 六角の井

 六角ろっかくの井は鎌倉十井の一つとされています。保元の乱で伊豆大島に流された鎮西八郎源為朝ためともが、光明寺の裏山天照山めがけて放った矢がこの井戸に落ちたという伝説があります。そこでこの井戸の別名を「矢の根井」ともいいます。
 なお、この井戸は屋根で覆われて暗く、中をのぞき込むことはできませんが、実際には八角なのだそうです。なぜ六角の井というかというと、ちょうど井戸の上が鎌倉と逗子の境界になっていて、鎌倉側は六角分だけなので、鎌倉の人は「六角の井」というのだそうです。

2024年4月26日に六角の井に行ったところ、何とこのような状態になっていました。
2014/4/12 飯島崎

 六角の井の先の民家の間を抜けると、海に出ます。小さな岬になっていて、飯島崎というようです。小さな祠があって、昔の漁師の無事を祈ったものと思われます。
 ここからさきは、逗子マリーナの敷地になり、豪華なリゾートマンションが建ち並んでいます。このマンションの一角でノーベル賞作家の川端康成が自殺したのでした。
 またこのあたりは住所が逗子となります。小坪の漁港も訪ねると面白いところですが、またこんどにしましょう。

逗子マリーナ
飯島崎 古東海道の道祖神

 行き止まりの道ばたに、道祖神が4体ありました。いかにも所在なさげでしたが、後ろに見える逗子マリーナの建設のために、この道が通れなくなったためです。しかしこれらの石造物でこの道が古い道であることが分かるわけです。
 その他、この飯島や小坪には、鎌倉にとっては大切な話がいくつか残っており、正覚寺や小坪城跡など見るべき史跡もありますが、それは逗子編でご案内しましょう。

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