旧前田侯爵別荘
三方を緑に囲まれ、南は広々とした海に向かって開いている絶好の位置にある、昭和戦前期の洋館を、鎌倉に縁のある文学者の資料の保管、公開を行っているのが鎌倉文学館です。
建物そのものが重厚な洋風建築としての文化財の価値があり、その前提にはバラなど季節の花が咲き誇る洋風庭園となっています。
※2023年4月より、全館改装のため、2027年3月31日までの予定で休館中です。(現在は、2029年度中の再開に延期されています。)
- 住所:鎌倉市長谷1-5-3
- 電話:0467-23-3911
- 入館料:500円(展覧会によって別に必要) 鎌倉在住の方は無料
- 休館中(2027年3月31日まで)
ミニガイド
- 加賀の前田家の別荘
明治23年頃、加賀百万石の大名前田家の子孫がこの地を別荘とましたが、関東大震災で焼失し、昭和11(1936)年に第16代の前田為利氏が再建したのが現在の建物です。前田家から土地・建物を寄贈された鎌倉市は、昭和60(1985)年に鎌倉文学館として1・2階を公開しています。

長楽寺跡
鎌倉文学館のある谷には、鎌倉時代には長楽寺というお寺があって、現在も長楽寺谷といいます。長楽寺は北条政子が頼朝の菩提を弔うために1225年(嘉禄元年)に建てた寺でしたが、1333年(元弘3年)の幕府滅亡の時に炎上し、廃寺となってしまいました。政子の遺品は大町の安養院に移りました。
石碑には次のように記されています。
「嘉禄元年三月二位ノ禅尼政子頼朝追福ノ為笹目谷辺ニ於テ方八町ノ地ヲ卜シ七堂伽藍ヲ営ミテ長楽寺ト号ス元弘三年五月北条執権滅亡ノ際兵焚ニ罹リテ焼失セリト此ノ地即チ其ノ遺址ニシテ今ニ小字ヲ長楽寺ト呼ベリ」
昭和六年三月建之 鎌倉町青年団」

鎌倉文学館
文学館内は残念ながら写真撮影は出来ません。ゆっくりと鎌倉ゆかりの作家たちの遺品をご覧下さい。文学館の庭園には、季節になるとバラが咲き乱れます。また典型的な谷戸に造られた鎌倉時代の寺院です。静かに鎌倉時代を、そして北条政子を、さらに幕府滅亡時の騒動に思いを馳せるのも良いでしょう。






明治23年頃、加賀百万石の大名前田家の子孫がこの地を別荘とましたが、関東大震災で焼失し、昭和11(1936)年に第16代の前田為利氏が再建したのが現在の建物です。前田家から土地・建物を寄贈された鎌倉市は、昭和60(1985)年に鎌倉文学館として1・2階を公開し、鎌倉で活躍した文学者を中心に、資料の収集・研究、そして一般公開をしています。(現在は休館中)

よく見ると軒下に大きなスズメバチの巣があります。大補修では取り除かれるのでしょう。

庭園








取り壊される? 旧前田邸洋館
2025年夏、鎌倉市民に意外なニュースが飛び込んできました。「旧前田邸洋館が今年を以て取り壊される」というのです。
旧前田邸洋館とは、現在、鎌倉文学館となっている旧前田侯爵家別荘の本邸に対して、別荘敷地内にある、前田家の御子孫が使っていた洋館(別館とも言われています)のことです。鎌倉文学館が取り壊されるわけではなく、今回、問題となっているのはこの洋館の方です。
2025年8月3日、鎌倉市主催見学会



解体を事前に知らされていなかった市民の要求によって、7月30日と8月3日に鎌倉市が一般向けの説明会を開催しました。7月30日がカムチャッカ地震による津波警戒警報が出されたため中止となったので、8月3日(日)10時の現地説明会に参加し、初めて旧前田邸の中に入る事ができました。
もしかしたら、これが「お別れ見学会」になってしまうかもしれないという危機感からか、酷暑の中たくさんの方が集まり、熱心に見学し、説明を聞き、意見をぶつけました。まずは、どんな洋館とで、その内部はどうなっているのか、をお伝えします。
洋館の外観





南側から見た洋館。荒れ方が一層ひどい。しかし、雑草を取り払えば、端正な洋風建築であることが分かるだろう。
屋内の見学
30人ほどずつ、順番に中に入れてもらう。先ず目についたのは、玄関脇の小部屋の剥がれた壁紙。玄関正面の傾いた剣と盾の飾り。


1階 応接室と居間




居間の備え付け家具

人が住まわなくなるとこうなるのか。
それにしても鎌倉市は、この市民の財産を、15年間もほったらかしにしていたとは。
建物内外から泣き声が聞こえそうだ。


2階へ


最後は前田家のお年寄りの女性がお一人で住まわれていたという。ここがその寝室であろうが、何という荒れ方だろう。まるで地震の後のような。



手洗いと浴室は各階にありましたが、2階の寝室の隣はひときわ立派でした
3階の和室

なんとも良い形ですね


3階の和室はこじんまりとして、質素な作りでした。
階段のかたち


勝手口から外へ



文学館前での説明





別館前での説明会


さて、鎌倉市は何故この洋館を壊そうとしているのでしょうか。現地説明会で鎌倉市文化課の若い担当者が、汗を掻きながら説明した「解体理由」は次の3点でした。
- 邸宅仕様のため、公共施設として必要な機能の整備が困難。
- 保存・活用には多額の初期費用と維持管理コストが発生。
- 建物が土砂災害特別警戒区域内にあり、安全確保が困難。
また、前提としてこの建物は1971年に住居用として建てたもので、文化財としての保護対象にはならない(鎌倉文学館は登録有形文化財に指定されている)という。
暑い中、残って説明を聞いていた皆さんから、さまざまな質問、疑問が出されました。
- 前田家から寄贈されてから15年間も放置したのは何故?
- 文化財としての価値がない、というが本当なの?
- 解体するって、市民の意見を聞かずに、誰が決めたの?
- 保存・活用には維持費が必要と言うけど、新しい建物を作るのにも高い費用がかかるのではないの?

などなど、書き切れないほどの質問が出ました。しかし、市の解体という姿勢は変わらず、今日の「これ、イイね」アンケートで残してほしいという部分が多いものは、残したい、というだけで終わりました。
家を壊すのは決まってる!残したい部分(ステンドグラスの飾り窓や照明器具ということかな?)はすてずに記念に取っといてやるよ、という態度ですね。
どうも、建物を物としてしか見ていないですね。この緑のなかの洋館というシチュエーションは、われわれ庶民には手が届きません。今日見学して感じたことは、これはいい家だ、こんな良い環境のいい家に住んでみたい!です。
環境の中で生きる建物。建物によって生きる環境。これはくやしいけど旧大名家、旧華族、あるいは大財閥といった人々の邸宅でしかうみだされません。
前田家の方が建物と土地を鎌倉市に寄贈したのは、旧大名家だから作ることの出来たすばらしい邸宅を、鎌倉市民の皆さんで使ってくださいね、とい仰っているわけですから、庶民階級として喜んで使わしてください、もったいなくて壊すなんて出来ません、となるのが心情ではないでしょうか。
この旧前田邸が壊され、かわりに新しい管理棟やカフェを作るそうですが、それによって周りの木々が切り倒されることになります。
この地は北条政子が夫頼朝の供養のために建てた長楽寺跡でもあります。その地に大名家の前田家が別荘を構えた。この洋館も含めた旧前田家別荘の景観には、鎌倉の歴史と文化のエッセンスの詰まっています。簡単に景観を変えるべきではありません。

おわりに今日の説明会で示された、鎌倉文学館の新施設完成予想図がどんなものか、文学館前から海側を見た現状の写真と見比べてください。


9月30日、最後(?)の説明会
9月30日(火)第3回目の現地説明会があり、午前10時からの午前の部には約160人が参加し、文学館の前で行われました。しかし質問は受け付けず、洋館見学後の11時30分から再開するということでした。

洋館の前の森では、樹木が伐採され、新管理棟・カフェの建設のための埋蔵文化財調査発掘が始まっていました。北条政子ゆかりの長楽寺の廃寺跡に建てられたのが旧前田邸であり、この谷戸全体が寺域であったと思われます。その歴史的価値が発掘で明らかになったとしても、鎌倉市はここにカフェを作るのでしょうか。説明会で示されたカフェや新管理棟の建物の完成予想図は、およそ景観とはマッチしないものと感じました。
発掘が調査の名を借りた遺跡破壊であり、歴史的景観にふさわしくない建物が作られてしまう懸念を払拭できません。


樹木を伐採してカフェ建築は必要か
11時30分から文学館前に戻り、質問が受け付けられました。文化課は前回8月の説明から全く変わって無く、洋館は取り壊す予定であると若い担当者が繰り返すだけでした。市長とまでは言わなくも、副市長か、少なくとも文化課課長がで出てきて、市民の声を聞くべきだ、というつぶやきも聞こえてきました。
文化課の説明に対して、文学館の修繕については市民は了解しているが、それに伴って洋館は解体され、前面の森を伐採して事務棟・カフェを新設すると言うことに関しては市民には知らされていない、と抗議しました。また現地の長谷1丁目の住民に対する説明会は実施したのか、という問いには無言でした。
文化課の答えは市議会で可決されているから問題ない、というものでしたが、市議会での議決の際、洋館解体、事務棟・カフェの新設まで含めて充分な検討がなされたのか、甚だ疑問です。
今ある洋館を残し、活用することを考えよう
説明会参加者の一人からは、変なカフェを作るより、今ある洋館を修繕して使えるようにすればよい、という意見が出されました。前回の説明会でも、洋館を解体せず、活用すべきだという意見が多く出され、具体的なアイディアも出されたと聞いています。
しかし文化課はこの洋館が一般住宅で公共施設としては使えない、バリアフリー化が出来ない、など従来の説明を繰り返しただけで、多くの市民から出された活用アイディアは全く生かされていませんでした。

姿勢を変えようとしない文化課職員に対して、北条政子創建の長楽寺遺跡を含む、鎌倉別荘文化のもっとも典型的な景観である旧前田家別荘地に対する大きな改変を強行することは、鎌倉の文化財行政としては間違っている、と強く抗議しました。
しかし、形の上で説明会はこれで終わり、このままいけば洋館は解体され、緑が削られて妙なガラス張りのカフェが建築されてしまうことになります。このような文化財行政を許して良いものか、「文化を大切にしない文化課」で良いのか、などなど強く疑問を感じた説明会でした。<2025/10/1記>
★関連サイト 旧前田邸を保存活用する会
2025年11月16日 遺跡発掘調査説明会
9月24日から始まった鎌倉文学館敷地内の遺跡発掘調査が、12月26日に予定されている調査終了を前に、11月16日に一般公開されました。午前中の10時からの回の現地説明会に参加しました。
発掘は鎌倉市が取り壊すといっている旧前田邸洋館まえの樹林を伐採してAB2ヵ所で行われ、中世鎌倉期の地層まで進んだところでした。この地は北条政子創建の長楽寺があったところと想定されていますが、今回の発掘では寺院建築らしい柱列などは出土しませんでした。しかし柵列と溝跡、一部に精巧な版築(整地跡)が見られ、何らかの建造物があったことが判りました。
渡来物の陶器や国産の陶器の破片、土器(かわらけ)、瓦破片などが出土しましたが、明確な寺院建築の遺品は出ておらず、長楽寺跡とは特定できないようです。
発掘前の状況は、9月30日に撮した、上の写真をご覧下さい。





12月末で発掘調査が終われば、遺跡は記録された上で埋め戻され、調査地点の上に文学館付属の券売所やカフェが建設されることになっています。つまり発掘は遺跡を破壊する前提での調査であり、隣接する洋館とワイン倉庫と共に消滅することになります。
今回は、市文化課からは、調査が完全に終わっていないので、遺跡の全景や出土品の公開はしてはならないと言われております。残念ながら姿をあらわした柵列や溝跡、貴重な版築の状況、出土した陶器片、かわらけ、瓦破片などは掲載できません。
鎌倉文学館の敷地全体の変更計画によって取り壊されることになった別館と付属のワイン倉庫の写真だけを掲載します。<2025/11/16記>
長楽寺跡? 遺跡発掘現場
12月21日、鎌倉文学館構内の発掘調査が終わったことを受けたのか、新聞報道(朝日新聞かながわ版)がありました。新聞記事での写真の1枚は10月に撮影された「発見された鎌倉時代の整地層と柱穴」とありました。
私は11月15日に行われた発掘調査報告会(午前の部)に参加、写真を何枚か撮影しましたが、市担当者が調査が終わるまでは写真を公表しないでほしい、というお申し出があったので遺構そのものの写真は遠慮し、上掲のような発掘地の周辺と説明会の様子だけを掲載しました。このたび12月21日に上記の様な新聞報道があったので、遺構写真掲載も許されるだろうと判断し、掲載します。上掲のものとあわせてご覧下さい。以下の写真はいずれも2025年11月16日、午前の説明会で撮影。
発掘A地点全景 西側(洋館手前) 発掘地が長方形なのは、建築予定のカフェの建つところだから。




発掘B地点 西側(奥) 文学館用の事務所(発券所)が建つ予定範囲を発掘している。



説明担当者は、いま見えているのが鎌倉時代の地表面であるという。注目すべき点としては、A地点にみられる版築跡とB地点の柵列である。
版築とは、建物を建てるための地ならし作業のことで、④で判るように薄く何層も版築作業が行われたことが判る。相当な手間をかけて作った建物があったことをうかがわせる。
柵列はB地点を斜めに横切っており、⑥で見られるように、等間隔の大きな柱穴と小さな柱穴が並んでいる。おそらく建物の周囲にめぐらされた塀のような建造物があったのであろう。そのどちら側が構内なのかはにわかに判定できない。地点Aに見られる二本の溝と、ほぼ直角に交わっていたことが想定される。
政子創建の長楽寺跡か
発掘地点からは青磁の破片や土器、瓦の破片が出土したが、いすれもこの遺跡が寺院跡であることの証明になる物はなかった。
この地は古い地名で「長楽寺谷」といわれ、一般に現在大町にある安養院の前身の「長楽寺」があったとされている。今回の発掘では、長楽寺跡であるという確証は得られていない。鎌倉市の説明会でも発掘担当者は「長楽寺跡」とは明言しなかった。
はたして長楽寺跡かどうかは、現在のところ文献上でも判明していない。鎌倉の廃寺についての基本文献である『鎌倉廃寺事典』貫達人・川副武胤編(1980 有隣堂刊)では、
「ともかく、文応元年(1260)四月二十九日、大火事で長楽寺前から亀谷の人家に至るまで焼亡した、と『吾妻鏡』にみえているから、長楽寺谷に長楽寺があったことは明らかであろう。後考を俟つ。」
といっている(p.153)。また、長楽寺が安養院の前身であり、北条政子が創建したということも安養院の寺伝にあるだけで、鎌倉時代の文献に記されていることではない。またその寺伝も年代的に矛盾するところがあり(奥富敬之『鎌倉史跡事典』安養院の項)、歴史的事実としては認められていない。
鎌倉には谷戸ごとに寺があったとされるが、その殆どは廃寺となり、宅地に変わっている。その点、この長楽寺跡は、明治以来、前田家別荘となったことによって宅地かを免れているので、さらに発掘地点を拡げれば、何らかの寺院跡であることが判明し、その規模や様子がわかるにちがいない。貴重な遺跡と言える。例えば頼朝が建てたという勝長寿院も現在の大御堂谷にあったが廃寺となり、現在はすべて宅地化され発掘調査は不可能になっている。同じく頼朝の創建した永福寺は、跡地が宅地化寸前に保存され、発掘によってその建物の規模が判明した。
ところが、長楽寺跡については、鎌倉市はこの発掘はこれで終わり、埋め戻した上で、この地に鎌倉文学館敷設の発券所と休憩所(カフェ)を建てるという。学術的調査とはほど遠い、場当たり的な調査でお茶を濁そうとしている。
北条政子の創建した寺、というのはロマンに終わるかもしれないが、少なくとも鎌倉時代の寺院がそっくり埋まっているという可能性が強い。そのような伝承のある遺跡の上にカフェを建て、調査はそれで終わってしまうというのは、鎌倉市民、中世の歴史に興味を持つ者としては、許されない。(2025/12/23記)
