天嶽院

2025/12/4

 天嶽院てんがくいんは藤沢市の東部、大船に近い渡内わたうちの住宅地の中にある立派な寺院です。余り知られていませんが、小田原の後北条氏との関係の深い曹洞宗の禅寺です。江戸時代にはよく知られた寺院でした。現在は周りの風景は開発で一変しましたが、境内は裏手の山も含めてよく残されており、ここだけ別天地をなしています。また山門から続く参道は、秋には見事な紅葉で彩られています。一度は訪ねてみてください。

 住所 〒251-0011 神奈川県藤沢市渡内1丁目1−1  電話 0466-22-0151
 Webサイト https://tengakuin.jp/
 交通案内
  バス利用 藤沢駅より 北口ビックカメラ前バス亭 神奈中バス 大船行き 
       大船駅より 東口交通広場 神奈中バス 藤沢行き
      いずれでも約10分 「小塚こつか(天嶽院入り口)」で下車 交差点を北上 徒歩13分
  駐車場あり 

 この地にはもと真言密教の「不動院」があり、治承4年(1180年)伊豆で挙兵した源頼朝が、鎌倉を目指す途中に立ち寄り不動明王様に戦勝を祈願したという伝説があります。
 北条早雲の創建  戦国時代になって小田原を中心に関東を治めた北条早雲が明応4年(1495)年、伽藍を整え、「不動院」を改めて曹洞宗の禅寺とし、虚堂玄白禅師を迎えて開山としました。しかし、天正4年(1576年)、火災に遭い伽藍は全焼、その後、玉縄城主北条綱成つなしげ・氏繁父子が北条早雲公の菩提の為に伽藍を復興しました。そのとき、北条早雲の戒名「早雲寺殿天嶽宗瑞大居士」から天嶽の文字を借り、天嶽院としたようです。

 水戸光圀、山門寄進  天正19(1591)年、徳川家康からこの地、渡内わたうちに寺領30石の朱印状が授けられています。その後、水戸徳川家の崇拝を受け、水戸光圀は藁葺きの山門を寄進したとの伝承があります。上の図は、江戸時代の文政年間(1818~1830)に渡内村の名主福原高峰が著した相模国の地誌『相中留恩記そうちゅうりゅうおんき略』巻之十八に記載されている図で、全盛期の天嶽院の隆盛を伝えています。残念ながら七堂伽藍は、安政2年(1855年)2月26日、22世住職の代に再び火災に遭い、伽藍は悉く焼失しましたが、この山門だけは焼失を免れました。
 堂宇の再建  現在の堂宇は昭和51年から平成10年までの復興工事により、ほぼ江戸時代の伽藍を復活させています。水戸光圀が寄進したという貴重な山門は、平成26年(2014年)4月、葺き替え工事がおこなわれましたが、そのとき、六枚の棟札が出現しました。最も古いものは安永9年(1780年)七月であり、その後、234年間に今回を含めて7回吹き替えたことが判りました。
 上述の歴史の一部は坐禅堂に保管中の安永3年(1774年)、14世住職の代に鋳造された古梵鐘に刻まれた銘文からも読みとれます。

 2025年12月4日、2時過ぎに天嶽院を訪ねました。初めての紅葉の時期の訪問です。山門をくぐると、短いけれど紅葉のトンネルです。同好の士か、望遠レンズを抱えた男性が熱心にアングルを探していました。まずは正面の本堂にお詣り。のんびりと紅葉のトンネルを抜けて帰りました。

 ゆっくり参道に戻り、紅葉を観賞。

 訪ねたのは午後の2時をまわっていた。ちょうど西陽がさしこみ、そのため山門の影がかかってしまう。訪ねるのなら、午前中の陽が高いうちが良さそうだ。夕方の雰囲気もそれはそれで良いものだが。

 かわいい地蔵さんたちがお見送り。

 天嶽院駐車場の左手に並ぶ、現代風六地蔵「温顔和楽」。右手から、ほかほか地蔵、らくらく地蔵、ふくふく地蔵、にこにこ地蔵、すくすく地蔵、いきいき地蔵、というそうです。

 天嶽院は交通機関で訪ねるには、ちょっと不便。藤沢と大船を結ぶバス便の途中のバス亭「小塚」で下車し、車の多い坂道を13分ほど歩かなければならない。
 それでもほとんど訪ねる人はいないのに、立派なお寺なのでびっくりする。裏山には広々としたお墓の分譲地になっている。
 時間があったら、ここから大庭城址に立ち寄り、藤沢の東の外れの二伝寺というこれまた不思議なお寺などを訪ねて、大船に入り、久成寺などをめぐれば、村岡地域のお寺巡りのコースになります。それはまた今度にしましょう。

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