毎年、7月15日に建長寺三門前で、施餓鬼会が行われます。施餓鬼は仏教寺院で行われる、地獄の餓鬼道で苦しむ亡者に飲食を与えて供養するという行事ですが、建長寺では特別な行事とされ、特に鎌倉時代の源頼朝の有力御家人であった梶原景時の供養のためという意味合いから「梶原施餓鬼会」あるいは「三門施餓鬼会」と言われています。
早朝の建長寺
2023年7月15日(土)建長寺三門で行われた「梶原施餓鬼会」を初めて見ることができた。
梶原というのは梶原景時のことで、建長寺開山の大覚禅師(蘭渓道隆)以来、毎年7月15日に執り行ってきました。かつては午前の施餓鬼会とは別に、午後の梶原施餓鬼会を分けて行っていたそうですが、現在では日付は同じく7月15日、朝8時から9時までの間に二つの施餓鬼会を引き続き実施しています。
当日は誰でも施餓鬼会を見ることができます。一般観光客で賑やかになる9時前に、管長をはじめとする全山とおそらく各地の建長寺派の僧が集まって執り行われる、鎌倉時代から伝われる興味深い行事を見ることができます。
以下に、会の前の様子を掲載します。まず、静かな朝、7時30頃から、僧侶の皆さんが準備を始め、関係者の皆さん(梶原景時の縁者が「梶原会」というのを作っているそうです)が椅子席に着き、一般の参拝やカメラを下げた皆さんが、三々五々集まってきます。参会者には建長寺の僧侶から丁寧な説明がありました。


施餓鬼会の開始は、午前8時前、三門脇の梵鐘(国宝)が撞かれて知らされます。

梶原施餓鬼の伝説
梶原施餓鬼には、次のような伝説があります。建長寺開山の大覚禅師(蘭渓道隆)がまだ在世中(鎌倉時代の初め13世紀)、7月15日に恒例の施餓鬼会が三門で行われていました。多くの僧侶を従えた禅師が読経を始めようとしたところ、どこからきたのか一人の騎馬武者が現れ、蒼ざめた顔色、血のにじんだ鎧のまま、無言で立っていました。
怪しい騎馬武者に並み居る僧侶は息を呑んで見つめるだけでしたが、禅師は驚いた様子もなく、何者だと訊ねました。すると武者は馬から下り、平伏してわたくしは梶原景時の亡魂です、凡夫の浅ましさから無念怨恨の鬼となって、いまだに成仏できません。今日は徳の高い禅師さまが施餓鬼会を執行されると知り、済度していただきたくて参りました、と涙ながらに答えたのです。
それを聞くと禅師は、何事もなかったように施餓鬼の行事をそのまま進めました。終わってみるといつのまにか梶原景時の亡霊は消え失せていました。
この伝説にはもう一つ、施餓鬼会が終わったところに梶原景時の亡霊が現れ、終わったと知って残念そうに立ち去りかねていたのを、禅師が見て、もう一度施餓鬼を行ってやったというものもあります。建長寺開山の大覚禅師(蘭渓道隆)と梶原景時にかかわる伝説をもとにした施餓鬼会が、鎌倉時代の昔から引き継がれているのは興味深いことです。
三門の前には餓鬼に与える食事が置かれています。

施餓鬼会
建長寺管長が三門の正面に着座して、施餓鬼が始まります。



















三門の裏側から




施餓鬼会の後に

お坊さんのパレードを最後まで見ていただきありがとうございました。









梶原施餓鬼会は9時頃、終了。
お坊さん方も記念品をいただきながら解散した。
おそらく各地の建長寺派の寺院から
招集されたのだろう。
それにしても僧たちの野太い声で唱和するお経はすばらしかった。
読経には音楽的要素がある。
夏の朝、すがすがしい気分に満たされた。
9時すぎ、観光の外国人の人たちも入ってくる。
日本人の観光客も、何をやってたんですか?
といぶかしげに通り過ぎていった。
梶原景時は相反する評価があるが、幕府草創期の最も興味深い人物であることには違いない。その霊は果たしてどうなったのだろうか。
梶原景時とは
さて、このとき山門に亡霊となって現れた梶原景時とは何者でしょうか。また何故、往生せずに亡霊となっていたのでしょうか。最後にご紹介しましょう。
梶原景時 ?~正治2(1200)年
鎌倉に梶原の地名が残っていることから分かるように、もともと鎌倉を開発した鎌倉権五郎景政の子孫。梶原の血を名字の地とした豪族で、五郎景清の子、通称は平三といった。
初めは平家に仕えていて、源頼朝が挙兵し石橋山の戦いに敗れて木の洞に隠れていたのを、追っ手の景時が見逃し、後に頼朝に仕えて重用された。『平家物語』にもしばしば顔を出す有力御家人となったが、最も有名なのは源義経との対立です。
平家との屋島の戦いで、義経に対して舟に逆櫓を付けてすぐに退けらるようにすべきだと進言し、義経に卑怯者呼ばわりされ、それを恨んだ景時が頼朝に讒言したため、頼朝が義経を排除することを決心した、というものです。
『平家物語』にも書かれていて有名な話で、景時はそれ以来、判官贔屓からは悪役とされてしまいました。しかし、作戦上は景時の進言は理に適ったもので、間違えてはいません。また、これがきっかけて景時が義経を恨むようになったというのは俗説で、確かめられることではないようです。
景時は古いタイプの御家人の代表で、侍所所司(次官)にまでなっていますが、頼朝の死は保護者を失ったこととなり、若手の御家人たちと次第に対立するようになってしまい、三浦義村らによって永福寺僧坊に隔離されてしまいました。
勢力挽回を狙った景時は、京都に行って訴えようと脱出しましたが、駿河国清見潟まで行ったところで幕府の追っ手のために討たれてしまいました。
景時とすれば、鎌倉幕府創設に力を振るったのに、最後は幕府によって反逆の疑いをかけられ、討たれてしまったことは不本意だったのでしょう。景時の無念は人びとにも知られており、それが梶原施餓鬼の伝説になったと思われます。
なお、今の梶原の地はその領地で、その屋敷は現在の寒川にあって、その館跡というのが残されています。また鎌倉の十二社にも景時屋敷跡というの残っており、朝比奈峠と途中には景時が上総介広常を討った刀を洗ったという「大刀洗」の地名があります。領地の梶原に近い現在の深沢小学校の敷地には梶原一族の墓と伝えられる石塔群が残っています。
梶原景時の息子の源太景季も『平家物語』では欠かすことのできない人物ですね。景季が佐々木高綱と競ったのが「宇治川の先陣争い」でした。父に従って上洛する途中、やはり討たれてしまいましたが、鎌倉に残っていた妻しのぶのもとに送られてきたその片手だけを手厚く葬ったのが、笛田の仏行寺裏山にある源太塚だと言われています。しのぶも自害し、かつては源太塚と並んでしのぶ塚があったそうです。
梶原景時は鎌倉にとってとても大事な人だったことが分かります。
*朝8時までに建長寺に行くには、最寄駅北鎌倉から徒歩12分。又は
江ノ電バス 大船駅から東口交通広場6番 鎌倉行き 7:15 or 17:30 所要時間 15分程度
江ノ電バス 鎌倉駅から東口2番 大船行き 7:10 or 7:47 所要時間 5分程度